とことこ編集者雑記

49歳バツなし独身乙女座A型トイプー双子姉妹6歳と同居

H山さん結婚ですか!

ものすごく久しぶりに更新。
Hガシ結婚かー。
68年うまれのとことこ編集者は世代的に
Tちゃん、M(ともに80年歌手デビュー)にドンピシャと
言えば言えるのですが、Jで一番好きなのはS年隊の二ッキだったり。
どれくらい前から好きだったかというとメンソレータムキャンパスリップで
「きみ、くちびーるキラキラ〜〜♪」と歌ってた初CMの頃からだ。82年。
そんな自分ですが、よく見る中からHガシファンにおすすめの動画を…
貼ってましたが削除されてました!((((;゚Д゚))))
デビュー曲のセンターは二ッキだったということを若い人はしらないかもだ。
んで自分が一番好きなS年隊の歌は「君だけに」。ミッチーもカバーしてました。

ところで作曲者である筒美京平
日本の作曲家別シングル総売上枚数1位という記録保持者
(作詞家では阿久悠。2人のコンビならToshi&Naoko「夏ざかりほの字組」を
推しておこう。いや言うまでもなく珠玉なのは
岩崎宏美の初期ナンバーだとわかってますが。
でも85年のレコード大賞作詞賞受賞曲だよ、「夏ざかり」。
と思ったら「また逢う日まで」がそうなのか! 71年レコード大賞)、
で、その筒美にとってのベストワークこそ、この「君だけに」(87年)なのだそうで。
いや何の不服もあろうはずはありませんが神曲があまりにも多いお方なので
「『君だけに』が、そうなんだ…へぇ」と、ちょっと意外でもあり。
ソースは「星をつくった男 阿久悠と、その時代」(重松清)…
以外にも、割とさまざまな場所で発言しておられるようですね。
自分が知ったのは上記の本ででしたが。
80年代の終焉と共についにオリコンランキング年間100位以内からも陥落してしまう
阿久悠に対し、専業作家デビューがほぼ同年(66・67年)の筒美京平が今なお最前線に
いると思うと、なんだかいろいろなことを考えてしまうのでした。
阿久悠全盛の1年は「津軽海峡・冬景色」「勝手にしやがれ」「UFO」を
世に送り出した77年。40歳の時(「津軽」は39歳でしたが)。
どれくらいヒット連発かというと
6/20「勝手にしやがれ」〜12/5「ウォンテッド」まで25週連続オリコン1位ですって。
前人未到にも程がある。もうこんな記録は出ないんだろうなぁ…。
筒美の「君だけに」は「専業作家20年目にして生み出せた傑作」と自負する作品。
職業人として「なるほど、そういうものなのか」と思わされます。それにしても
生まれは阿久悠が37年、筒美が40年だから同世代ですよねぇ。筒美氏、神すぐる。
その、「日本一」の作曲家の「ベストワーク」の
「センター(振りの関係で左にいたけどサビを歌ってた)」を務めた歌手、
それが二ッキ。
…二ッキ、神に愛された男か!(実際、唯一無二にして不動だよね、その立ち位置)
てなこと思いつつ、某月某日「Jの中では二ッキが一番好きなんです!」と
同世代カメラマン氏に話したところ
「今二ッキってフッくんポジションですよね」
「!」
なんだか両方のファンの方に何と言っていいかわからないまま、この日記を終わる。
※Jについての日記を書いたことがなく、いろいろとホントすみません。
ニュースを受けての日記なので、気が変わったら削除するかもです。

さよなら初恋メモリー

某月某日。「ハリウッドの元子役スター急死」のニュースを見て
「誰だろう」とクリックしたら、それはコリー・ハイムのことだった。
彼の主演作は1つしか見ていない。それが89年日本公開「ルーカスの初恋メモリー」。
昔「ダ・カーポ」という雑誌がまだあった頃に
「映画で学ぶ英会話」的1Pコラムがあって
印象的なセリフのやり取りが紹介されていたのだ。と前振っておきながら字幕を引用。

14歳で高校に飛び級進学した、小柄な少年・ルーカスと
16歳で転校してきた美少女・マギー。
新学期が始まる前、ふとした出会いをきっかけに2人は夏休み中仲よく遊ぶが、
学校が始まるとマギーはアメフト部のイケメン(チャーリー・シーンだ)に
恋をしてしまう。距離が縮まっていく様子を見ていられずに避けるルーカス、
追うマギー。うつむくルーカスにマギーは言う。


「あなたとはただの友達よ」
「なぜ」
「なぜって」
「なぜ ただの友達」
「だってそうでしょ」
「だから なぜ」
(略)
「お友達のままでいて 私を困らせないで」


おおおおお(号泣)。この場合もちろん自分はルーカス側である。
多少イジメっぽいシーン(イジリか?)はちょっといたたまれなくなるけど、
ラストのハッピーエンドはいかにもアメリカンハイスクール的な佳作です。
ウィノナ・ライダーのスクリーンデビュー作とも(マギー役ではない)。
ちなみに映画の冒頭とラスト近く、そしてチラッと中盤にも登場するのだが
各々印象的なシーンで「セミ」が出てくる。「17年? どゆこと?」と思っていた
「17年ゼミ」とは北アメリカの北部にしか生息しない種類なのだそう。
養老孟司「続・涼しい脳味噌」所収「セミの話」によると北アメリカには
13年ゼミというヤツもいるらしく、揃って「素数」であることが面白い、とある。
セミは一斉に地上に出てミンミンジージーオーシーツクツクとやり出すので、
捕食者にとってこんなにわかりやすい餌もない。だから一度にたくさん出てくる。
これだけたくさんいれば、到底全部は食べきれない。
それにしても、何故「素数」なのか。続けてエッセーから引くと
「15年ゼミ」だと3年おき、5年おき、15年おきに出てくる捕食者とかち合ってしまうが
「17年ゼミ」なら同じく17年待つ捕食者しかありえない。とはいえ真相は知らず、と。


ラストに近いシーン。
夏も終わり、セミもいなくなった、と話しかけるマギーへの答えに。


「次は17年後だ。君は33になってる。僕は31歳半だ。
まだ君と友達でいるかな」
「分からないわ」
「友達でいたい」
「そうね 私もよ」


去年の10月に16年ぶりの中学校の同窓会と23年ぶりの高校の同窓会に行ってきた
自分の体験として言えることは、一度友達になったら、それは永遠に友達なのだ。
たとえ二度と会うことができなくなったとしても
(高校の同窓会は、某クラスメイトの一周忌のタイミングで開かれた)。
その証拠? というか、連絡を取り合っていなくても昔仲良かった子となら
顔を合わせれば十余年の歳月を超え、当時に近いテンションで話もできたし、
逆に「絶交だ!」と思っていても「縁を断つ」という形で絆を結びあっているというか、
お互いが納得ずくでなかったとしても、その関係値を保つことに合意ができてる風な。
で、その頃に友達づき合いしていなかった人とは大人になっても話の接ぎ穂もない。
いや、そこを広げられるようになっていてこそ「社会人」なのやもしれませんが。
「男女間の友情」というか「自分を振った相手とも今なら友達づき合いできるかもー」
というのもちょっと思ったな久々に顔見て。これが大人になるってことか。おっと余談。

捕食者の爪を逃れ、次の世代に命を繋ぐための出会いを待つのに、
17年という時間を必要とする種がいて。
しかしヒトにとっての17年は、長いようでもあっという間だ。
3回繰り返したところで、わずか半世紀。
コリー・ハイム。享年38。17年ゼミと2度目の遭遇をし、
3度目のターンにまだ入ったばかりだったのに。
褪せぬ姿を映像の中に留め、変わらぬ彼が今もそこにいる僥倖に
感謝するよりほかはない。R.I.P.

「駅」を書いた頃

「駅」は某大漫研に出入りしていた87年、大学1年の頃に、
サークルの出し物のスライド用の原作として書いたものでした。
実体験ではない。一応…。
その年の春は南野陽子「話しかけたかった」がオリコン1位、
まだ受験生だった頃の86年冬に出た、秋田書店「コミックOz」第2号
巻頭カラー4Pショートショートたがみよしひさ「待っている…」を読み、
夏合宿の直前にテレビで「ハチ公物語メイキング」をたまたま見て(号泣)。
「片思いの人を駅で待つ、というモチーフはイイなぁ」と
思って、合宿帰りの電車の中で、紙袋かなんかの裏紙に一気に書き上げたという。
自分としては当時、上記3作品に刺激を受けたと思っていましたが
原風景は85年谷山浩子「うさぎ」のシチュエーションがどうやら出発点っぽく。
そしてヒロインがポニーテールなのは「悲しみよこんにちは」の次に出した
12インチシングルで、86年夏「土曜日のタマネギ」の頃の
ふんわりした雰囲気の斉藤由貴をイメージしてました。うふ。
国生さんも似合ってましたが、当時の最強ポニーテールは
斉藤由貴以外ありえません。異論は認めない。

というわけで、表記が統一されていなかったりしますが、
行変え以外はすべて当時のまま手を加えずにアップしてみました。
多少てにをはが「?」な気もしますが、当時18歳の文章だということで、
お気になさらずに。なんで今になってアップしたかということについては
特に他意はなし。まぁ3月中じゃないとおかしいかな、といった程度。
それにしてもあれだ、書いた時の記憶はあるのに、20余年を経て
文章を書き写して思うに、これを書いた人と今の私は別人です。
「ちょ、今これ完璧ストーカー」とか、ポニーテールにリボンという小道具だとか、
そういったもろもろも含めた上で、今の私にあの話はもう作れない。
その時じゃないと、書けない文章がある。
本当は「10代だから」じゃなくて、今この瞬間もそうなのですよね。
しかし校了週。「今書くことの大切さ」を説いた先から、
校了明けまで再び休眠。さりげなく外薗昌也がラグナ通信シリーズ描いてたり、
森下裕美がエッセイ(文章)書いてたりする「コミックOz」については、
機会があったらまたいずれ。たがみさんのショートショート
「精霊紀行」シリーズっぽい湿り気を帯びた薄暗く冷たい空気感が最高です。
4/20に発売されるという短編集に収録されるとうれしいですね!
たがみ作品最初の出会いだった「Yumiko」も久しぶりに読みたいのぉ…。

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「駅」

 この駅の改札を抜けて向って左側にある細い柱が
彼女のいつもの指定席であった。下校時、駅に着くと
彼女はトレードマークのポニーテールを
風になびかせて数分を過ごす。すると、十分と待たずに
彼女と同じ学校の制服を着た二人連れの少年が通る。
「彼」は冬だというのに陽に焼けていて
―おそらく運動部に所属しているのだろう―
時には談笑し乍ら、時には「互いに口もきけない」程の
疲れを目元に濃く滲ませながら、東口の階段を降りてゆく。
それを見届けると、彼女は「溶けるような笑み」を
かろうじて抑えている、というその努力だけはうかがえる表情で
西口の階段を降りてゆく。それは「彼」の名前を
初めて知った日以来の、彼女の習慣だった。

 校歌を斉唱し、後輩からの花束を抱えた制服達が
改札を通り過ぎていった日から、まだいくばくも経たない頃であった。
彼女は在校生だったが、終業式をも待たない急な引越しは、
愛すべきささやかな習慣を“be used to”で語り始めようとしていた。
彼女にとって最後の“いつも”は、「彼」にとっての“いつも”を
等しくはもたらさなかったようだ。十分待っても三十分待っても、
彼は現れなかった。背中から足早に夕まぐれは駆けてくる。
時折改札を抜けてくる人混みは背広姿が殆どである。
長針が二度回ったのか、或いは三度回ったのかわからなくなった時、
冷たくなった耳たぶを冷たくなった指先で押さえていた彼女は、
目を伏せたまま、これもトレードマークだった紺のリボンを勢いよくほどいた。

 既に、彼女の姿はなく、持ち主の替わりに「彼」の姿を探そうとするかのように、
目の高さに固く結わかれたリボンが、無彩色の駅の中で風になびいていた。

 しかし、それからほんの僅かばかり後、OBの家に立ち寄った彼等のうち、
それに気がついたのは「彼」ではなく、彼の友人の方であった。
その少年は柱の前に立ち止まり、身じろぎもせずにリボンを見つめていたが、
何を思ったか、ていねいな手つきでほどき始めた。「彼」は階段に
足を踏み出したところで、やっと、どうした訳か立ち止ってうつむいている
友人に気づき、不思議そうな顔で近づいていった。
「どうしたの、おまえ、そのリボン。」
「おれさ、好きなコがいたんだよ…。」
彼はリボンをいつか握りしめながら、淋しく微笑んだ。
「片想いだったけどな。」

(1987年8月31日 記)

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母 二題

その一「氏より育ち」

30代になりたての頃。とあるタイミングで実家に帰った。
「早く結婚して、孫の顔を見せてちょうだい」的プレッシャーをかける両親では
ないのだが、それよりはむしろ、30代になっても「契約社員
(※恐ろしいことに、あと4か月弱で40歳になる今もですが)であることに
「この子は大丈夫なの?」と懸念するものがあったらしく。
というか「この子は結婚なんかできそうにないだろう」という
読みがあったからこそ「経済の安定」が大事だと思ったのかどうか、
雑談の流れから、十年一日のごとく言われ続けている、いつものお小言が始まった。
「まったくあんたはいつまでも、親に心配ばっかりかけて。
どうしてこうなっちゃったのかしらね、小さい頃はあんなにいい子だったのに」。
就職問題では新卒時に家族と大モメしたのが流転人生のきっかけとも言えたので
「原因作っておいて何言ってんだか」と虫の居所が悪くなった自分は、冗談のつもりで
「そんなに『小さい頃はいい子だった』んなら、じゃあ育て方に失敗したんじゃん?」
すると。
居たたまれそうな表情のまま、母は無言で視線をそらした。

……………!!!


その二「三つ子の魂百まで」

上記から遡ること20余年、8歳ごろのこと。側溝にはまりざま、
有刺鉄線に右腕をひっかけ平均7cmほどの長さの傷が、約1cm間隔で4本できた。
小学校低学年。家に包帯などなく、何枚も何枚もハサミで切り貼りして、ガーゼの部分が
傷口を覆うような長い絆創膏を作った。玄関からすぐの、テレビを見る人がいなければ
普段は人の居ない応接間で、明かりもつけず、誰にもバレないように
(当時は母方の祖父母と同居)。
今でもこの時の「ドアを開けられたら、明かりがつく前に絆創膏を隠さなきゃ」と
思っていた気持ちを覚えている。2日ほどして、傷が母に見つかった。

「どうしてこんな大きなケガ、黙ってたの!」
「だって、怒られると思ったんだもん…」

その時の母の、何とも言えない顔が、いまだに忘れられない。
…と書くと本当っぽいが、それは嘘で。
母の表情は覚えてません。
記憶がないということは。たぶん、顔を見ることができずに、うつむいていたのかと。
ただ。
いつもの「バカねぇ、何言ってるの」の口グセが返ってくるまでに、一瞬、間が空いた。
この会話は今に至るまで、遂に忘れられない記憶となってしまった。

結果的に。薄く2か所、爪あと程度。そしてハッキリと1本、3cm強の傷が残った。
跡は残ったが、痛みはもう、ない。

明日は母の日。

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わかれる昼に

某月某日。某氏2名と某所で待ち合わせ。いいお天気。
タクシーを拾う。
「××寺まで」。
駅から10分足らず。
砂利を踏み、中の人に呼びかけ線香を分けてもらい、案内される。
「××家××…」
立ち止まり、無言で見つめる。
今日は墓参の道行きである。
昨年9月4日の日記で触れた訃報の人物が、ここに眠っている。
各々、その人が好きそうなものを持参し、供え、手を合わせる。黙祷。
間が空いて、やがてポツリポツリと誰からともなく当時の気持ちがこぼれて出てくる。
「とにかく、残念としか言いようがなくて」
「自分は、担当を離れて、会わなくなって久しいタイミングで急に訃報を聞いて。
つまり、目の前から突然いなくなったわけではないから、
今でもどこか別の場所で、似たような職業で働いてるんじゃないかっていう気がして」
「とにかく、実感がないんです」
某氏がいつも「○○ちゃん、○○ちゃん」と呼びかけていたので、
私はその人の本名を知らなかった。よもや、板塔婆と戒名で確かめることになるなんて!
墓石に刻まれた名は、間違いなくその人が存在していて、かつて生きていて、
そしてもう亡くなったことの証にほかならず。つまり私たちは
その人の死を確かめるために、その人に会いにきてしまったのだ。
去る前に、もう一度3人で手を合わせる。
そして、見つめあい、また砂利を踏んで寺を辞去。
ちょっとだけ具体的に書くと、今の職場にいる人のほぼ誰よりも前から、
私と某氏はその人にお世話になっていた。
最後に「ありがとうございました」とハッキリと口に出して、一礼した。

訃報から半年を経て。何故このタイミングで墓参りなのかというと、
某氏がもうじき職場を離れることが決まったからなのだった。
「みんなみんな、オレ(=とことこ編集者)を置いて、去っていってしまう。
某氏、オレはさびしいよ!」
新しい門出なんだから「おめでとう」って言ってあげなきゃいけないのに。
「残る方も去る方も、さびしいですよ」
某氏が答える。どちらが、よりさびしいのかはわからない。
明日は早くも、祖母の一周忌。
この春は図らずしも、死者と生者を見送る季節になった。
表題は立原道造の詩の題名を拝借。

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不在の旅

某月某日。常磐スパリゾートハワイアンズに一泊二日。
メンバーは父母自分、兄一家、そして叔母。その叔母がオール旅費持ち。いやっほう。
我が家とハワイの関係は深い。といっても最近の話で、
9年前に父が定年退職した時、兄妹で両親の旅費を負担して
5泊7日の慰安旅行。初ハワイ。
そして兄の結婚式も、景気よくハワイ。
義姉一家は両親、義姉、親友の女子1名(彼女と私が相部屋になった)。
こちらからは両親、兄、私(自分だけ旅費全額負担)。
その時、叔母夫婦も招いたのだ(私が呼んだんじゃないけど)。
「お祝い事だから、一緒にどう?」と。
しかし「先生(叔父)が飛行機が苦手だから、遠慮するわ」という返事。
あれから早幾星霜、兄家にはチビも誕生しハワイデビューはまず国内で、ということに。
ドンドコドコドコと鳴る太鼓の音に涙し(怖かったらしい)、
それでも大勢の人と一緒にステージに上がってフラを踊り。
ちなみにママ(義姉)もばぁば(母)も、フラダンスを習っている人なのだった。
その時自分は何をしていたかというと。観客席に陣取りつつ、居眠りしてました。
正直、スケジュールがキツイ時期だったのだ。しかし、叔母の誘いとあるからにゃ、
それもアゴアシ付きならば。自己負担なしで初めて「ハワイ」に行けるチャーンス。
ひと眠り後、夕食はバイキング。酒。熟睡。
翌日は流れるプールを兄家と共に3周してきました。
大型バスに乗ってターミナル駅へ。もう夕方。駅ビルで、早めの晩ご飯。
「ここは、ウチが出すわよ」「いや、ウチが」と母・兄が財布を取り出す中
(私は高みの見物)、叔母がキッパリと言った。
「これは、先生の遺言だから」
「!」(一同)
「亡くなる5日くらい前に、苦しい息の下で『皆さんにお礼をしてくれ』って
言われてたの。『優しい皆さんに、いつも旅行に誘ってもらって、
本当にお世話になりましたから』って」
亡くなって、これだけ時間が経てばもうひと通りの手続きは終わっているから、
パーッと遊びましょう、としか聞かされていませんでした。でも、そうではなくて。
この旅行自体が、叔父の遺志だったのです。
唐突に、数年前のことを思い出しました。「飛行機が苦手」っていう話だったけど、
確かに海外旅行には遂に出かけなかった叔父だけど、国内線には乗ってたじゃん…。
なぜ、今回の旅行が思い出の場所ではなくて、初めてのハワイアンズになったのか。
もしかしたら、叔父夫婦は本当はハワイ旅行に一緒に行きたくて、
でも、考えに考えに考えて、参加を見合わせたんじゃないのか。
「飛行機が苦手」を完全に真に受けてました。私だけかも知れませんが。
本当のところはどうだったのか。
もう叔父の口から真相を語ってもらうことはできません。
何年も後に、こんな形で、思いを馳せることになるなんて。

昨日は納骨でした。
名残の桜が散る中。
「願わくば花の下にて、なーんて、ベタだけどなっ」と
叔父の声が聞こえてきそうでした。
不在の旅は、これからも続きます。
残された私たちが、歩みを止めるその日まで。
存命であれば、今日が72歳の誕生日だったのだそうです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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