とことこ編集者雑記

47歳バツなし独身乙女座A型トイプーふたご飼い。出版社勤務ですが編集部門から離れた、のか? とりあえずはてなブログにお引っ越し

哀愁的フリーライターまたは葉桜忌

昨年末、立て続けに重松清の文庫新刊が書店に並んだ。
11月「卒業」(新潮文庫
12月「哀愁的東京」(角川文庫)
1月「送り火」(文春文庫)。
いずれも03年8月〜04年2月に単行本発売。中編集・長編・短編集とスタイルも異なる。
そして執筆期間は01年の直木賞受賞(00年下期)を挟む。
つまり作家・重松の環境が激変した最中に書かれたものだ。
その中の一冊「哀愁的東京 文庫版へのあとがき」にこうある。
「一九九〇年代半ばの僕は『ときどきフィクションを書くフリーライター』だったが、
 連作を書きはじめた頃には『フィクションの原稿が半分を占めるフリーライター』に
 なっていて、書き下ろしの短篇を仕上げた頃には
フリーライターの仕事もつづけている作家』と呼ばれるようになり、今日に至る」。
その「哀愁的東京」が発売された12月。新潮文庫の新刊に、
彼が解説を書いた作品がある。
それが、鷺沢萠の遺作となった、最後の短編集「ビューティフル・ネーム」だ。

鷺沢萠さんにインタビューさせてもらったことが、つごう四度ある」
という書き出しで始まる解説は、過去三度は90年代初頭から半ばにかけての
短い記事だったこと(田村章名義の可能性が高いですね。
大宅文庫で調べればわかりそうな気がします)に触れ、
02年の四度目そして最後のインタビューの時の状況を中心に展開されている。
インタビュー自体は、生前に発表されたものとしては
最も本格的な「鷺沢萠特集」である「文藝」03年春号掲載
(4/15現在、在庫はあるようなので、取り寄せて読むことは可能)。
「文藝」の記事が、できあがったひと皿だとすれば、
「ビューティフル・ネーム」の解説は、料理中のシェフの心情を吐露したもので、
両方を通読すれば「作家へのインタビューを、記事にまとまるよう、
どう組み立てていくか。
そして完結した記事(文責は編集部)。その経過報告を作家・重松の視点で行う」という
極めて稀なシチュエーションに触れることができるのだ。
ん、意味不明になってないか?
文藝では「重松がインタビュアーとなって鷺沢に話を訊き、
それを担当編集者が記事に起こす」という状況。
できあがった内容は、重松から見てもインタビュー記事の鉄則を守っており
(「鉄則」の内容は解説本文参照)、後から、その判断が正しかったことを知るのだが。

話は変わり、一時期の「ダ・ヴィンチ」。
表3の連載「日本テレコム マンスリーエッセイ」が
メディアファクトリー文庫「君へ。つたえたい気持ち三十七話」という一冊になった。
「コミュニケーション」がテーマの、各作家がエッセイを寄せたアンソロジー、
その第1回目を飾ったのが鷺沢萠。「what if……」というタイトルの終盤に、こう書く。


「ひとは歩くのをやめない。話すのをやめない。
 伝えたい気持ちをあきらめられない」


00年からスタートした連載が、計37名を迎えて文庫になったのは04年3月。
そして「ビューティフル・ネーム」の単行本刊行が04年5月。
「ビューティフル」文庫本の帯にもなった、重松の解説を引用する。


「だが、そのとき、もう鷺沢さんはいなかった。『鷺沢萠』という美しい名前は、
 ほんの一カ月ほど前に、文学史と僕たちの記憶の中に封じ込められていた。
 なによりも、それが悔しくて、悲しい」


ちなみに「君へ。」は、文庫という制限の中で、雑誌掲載当時の誌面をかなり忠実に
再現している。エッセイの終わりに、著者の手書きのひと言が
必ず加えられているのだ。
著者がどういう筆跡の持ち主かがわかる、ファンにはお楽しみのおまけになるのだが
鷺沢はエッセイのタイトル「what if……」を受けた英文を一文残している。
そこには誠に苛烈としかいいようのない真実が書かれているのだが、
18歳で世に出た彼女こそが、誰よりも「それ」をわかっていたのだと、
今となっては思うしかない(「一文」は原本でご確認を)。

「ビューティフル・ネーム」解説と、「哀愁的東京 文庫版へのあとがき」は
共に06年11月に書かれている。後者にある。


「『哀愁』は、なにかを喪うことでしか感じられない。(中略)
 だから――書きつづけていきたい、と思う」


最後の最後になったが、この「哀愁的東京」の主人公は、
重松の職業的プロフィールが現時点で、最も色濃く反映された作品である。
そして、この一節を書いた時、
ほんの瞬間でも「鷺沢さんの笑顔」が氏の胸中をよぎったものと信じる。
ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
鷺沢萠さんのご冥福をお祈りいたします。