読んだもの雑記

主に漫画の感想を書いていきます

初恋の人を追悼

自分は昭和43(1968)年9月生まれ。
1973年4月発売のジュリー「危険なふたり」の記憶はありませんが
1974年5月発売のヒデキ「激しい恋」は振り付けと共に
リアルタイムで覚えています。というわけで、成人に至るまで
続く記憶の扉は5歳の時に開いたようです。お祭りの夜店で
ヒデキの写真が貼り付けられたペンダントを買ってもらったのは
鮮明に覚えています。

私は阿久悠チルドレン世代(阿久悠は父よりひとつ年上)でもあるのですが
人生で最初に歌詞に感激したのが、やはり西城秀樹が76年2月に
リリースした「君よ抱かれて熱くなれ」でした。
阿久悠が手がけたヒデキのシングル初作詞にあたる曲です。
Cメロ「愛は人の前を~」からの旋律がまたドラマティックでねー。
一方、同年8月にジュリーは「時の過ぎゆくままに」を皮切りに、
阿久悠作品を歌い始めます。
ちなみにこの曲はドラマ効果も相俟ってか
「勝手にしやがれ」を僅差で押さえ、ジュリーのシングル最大売上です。
以降、ほぼ同時期に2人は阿久悠作品でシングルをリリースしていきます。
とはいうものの、ジュリーは「OH! ギャル」への感想が有名ですが
「僕は正直に言って、阿久さんの詩はあまり好きではなかったんです。
カッコ良すぎる、はっきり言いすぎると思っていたんです」

と公言しています。出典・重松清「星をつくった男 阿久悠と、その時代」。
発言自体は92年刊行「阿久悠 歌は時代を語りつづけた」に寄せた
コメントです。当時、阿久悠55歳、ジュリー44歳。
まだまだこれから一緒に仕事するかもしれない時期に、
確実に阿久本人が目にする場所で、この発言。
結構すごくないですか。ジュリーらしいと申しましょうか。
このコメントの後に

「だから化粧やコスチュームで、強い詩に負けないように
切磋琢磨して、みんなの思いがうまくかみ合った」

と続きはするものの。

今日の本題。
ヒデキはこういう時に出てくるコメントが優しいです。
「確かに言葉だけを見れば押しつけがましいフレーズもあるんですが
メロディーに乗るとロマンになるんです」

と言い、
「沢田研二さんと僕は、阿久さんの中ではシャープとフラットの
関係だったんじゃないですかね……」

(同じく「星をつくった男」より)。
このとらえ方は、とてもステキだと思います。
ジュリーと背中合わせで、男性シンガーとして時代に対峙していたのは
他の誰でもなく自分なのだという自負もあるんじゃないかと思えます。
※このあたりの記述は講談社文庫「星をつくった~」P283あたりからどうぞ。
ジュリーは1948年、ヒデキは1955年生まれなので、同世代と言うには
やや年齢に開きがあります。2018年に振り返ると、初のレコ大連覇すら
取り沙汰されたジュリーに対して、ヒデキは大勝負の場でてっぺんを取ることが
少なかった。「ザ・ベストテン」で2週連続9999点は取れても、
紅白のトリは回ってこなかった。ジュリーがレコ大を取った
77年から3年後。80年12月に「スニーカーぶる~す」を世に出し
オリコン始まって以来の「デビュー曲で初登場1位」という
偉業を打ち立てたマッチ(64年生まれ)の登場で、歌謡曲シーンが
完全に世代交代します。一方、聖子デビューと百恵引退も80年。
比べると、男性歌手は難しい展開だったなぁとしんみりします。
たのきんブームの80年にヒデキは25歳。演歌勢がまだ
ヒットチャートに健在で、年嵩の彼らよりも早く
「居場所」を追われてしまったかのような。
アイドル寿命を延命させたという評価が定まった感のある
SMAPは2トップが26歳の時に「夜空ノムコウ」をリリース。
以降「世界に一つだけの花」までの5年間が売り上げや人気の
ピーク時かという印象。全般的に、昭和のポップス歌手、はかなすぎる…。
GS時代から通算すると15年近く、トップ10にランク入りし続けた
沢田研二の別格感たるや。また、21世紀に入ってからも
耳目を集めるヒット曲を叩き込んだ郷ひろみの
驚異的なタレント力についても、また機会があれば。

そんな中で思うのは、ヒデキは

記録よりも記憶に残るシンガーだったと言うこと。
その証拠に、特にバンド系ボーカリストに
フォロワーを多く生み出したこと。
歌番組から姿を消して久しかったですが、ネットの書き込みなどで
後世のシンガーへの影響力に触れている方が大変多く
「そうだよね、みんなヒデキをよく知っているよね」という気持ちに
なりました。最後に、目立たないシングルですが転調が飽きさせない
「エンドレス・サマー」(冷夏だった80年リリース)の再評価希望と
「やはり、阿久悠連作のラスト曲、ブルースカイブルーで
レコ大取ってほしかった」と書き残して、この項終わり。