読んだもの雑記

主に漫画の感想を書いていきます

葉桜忌をすぎて

2月、ニューヨークに行った。
本稿の本題に関係ないので詳細は省くが
「BANANA FISH公式ツアー」だった。
連載当時、80年代後半~90年代前半のニューヨークは

世界で一番熱い街であるのと同時に
治安の悪さも喧伝されていて、自分の性格から考えて
まず一生行くことのない場所だと思っていた。
ちなみに大学2年の88年にサンディエゴには行ってます。
大学姉妹校のドミトリーに4週間、当時はやりの短期留学的な。
そこまで行っておいて、それでもニューヨークは遠い街だった。
昭和末期~平成最初期の自分にとって
現実のニューヨークとは
郷ひろみと二谷友里恵が新婚生活を過ごした街、
尾崎豊が無期限休養を発表後に渡米した街、
そして91年2月号「月刊カドカワ」の「鷺沢萠スペシャル」で
鷺沢萠が滞在記を書いた街、であった(滞在は90年11月)。

 

この雑記で何度か言及しているが、同学年ということもあり
鷺沢萠の動向をチェックせずにはいられない時期があった。
しかし本人は去ってしまった。
しばらく心の底に沈めた時期が長くなった。
ツアー帰国後に「そういえばニューヨーク滞在記を読んだような…」
と思い至り、保存していた切り抜きを引っ張り出した。
「ロックフェラーセンターの地下のレストラン」
あったあった、ラストオーダー過ぎてて入れなかったとこだ!
「四十九丁目の紀伊國屋書店。わたしの本は
『海の鳥・空の魚』これ一冊っきりしかなかった」。
いやいやいや22歳でニューヨークの紀伊國屋に単行本ぶちこめる作家が
令和にならんとする今日までに、どんだけいましたかと
(当時は著作を4冊を刊行していた)。
87年のデビュー~93年にスランプに陥ってしまうまで
時代の寵児と言っても過言ではない活躍ぶりだった。
とはいえ04年4月に亡くなる直前にも新刊が出ていたし、
仕事の不調が何かの原因ではなかったはずだと信じたい。
この月は「冬のソナタ」がNHK地上波で初めて放映開始された時期。
「第○次韓流ブーム」の中でも、日本国国民の老若男女に
最も幅広く多数に訴えたのはこの「冬ソナ」に間違いないと思う。
ハングルが得意な鷺沢さんなら、仕事で新たな展開があったのでは、
それからまったく別の人生があったのでは…と
今でも思ってしまう。没後15年を過ぎた今でも。

 

公式HPは今もアクセス可能だ。しかし、管理人である
「わたべさん」の追記によると「偲ぶ会」は13回忌となる2016年が最後。
昨年、生きていれば50歳を迎えるはずだった6月に、デビュー作=
文學界受賞作を収めた『帰れぬ人々』が講談社文芸文庫より刊行。
そこではサギサワエッセイのラスボス的存在である
「めめのおねいちゃん」こと長姉氏が「あとがき」を寄せていた。
没後立て続けに出た文庫の解説は親交が深かった酒井順子、
亡くなった当時秘書として鷺沢さんをサポートしていた小山田桐子氏、
小学校からの親友、春日井政子氏。
サイトの日記は3冊文庫が出ていて、亡くなる直前までを収めた
4冊目は単行本になった。わたべさんが解説を書くポジションとして
適任かと思われたが、文庫化はされなかった。それでも
サイトでわたべさんの文章に触れることはできる。
「おねいちゃん」はサギサワ読者にとって「四姉妹の末っ子である
めめさんを、母代わりのように育ててくれた人」として知られ、
91年の記事にもほほえましいエピソードがいくつか掲載されている。
ただ、ご本人の文章が公の場に発表されたのは初めてだ。
鷺沢萠を直接知る関係者の言葉がついに出そろってしまった。
書かれた日付は2018年、鷺沢さんが50歳になる直前の4月11日。命日。
8歳年下の亡き妹を偲ぶ語り口は、鷺沢さんの文章にとてもよく似ていた。

 

享年35。ということはあの華やかな18歳のデビュー時点で
人生の折り返しを迎えていたし
平成16年の逝去は平成の折り返し地点でもあった。
振り返ってわかることは、常に痛みを伴う。
保存した切り抜きには当時の連載「君がそこにいたように」9話もある。
後に『愛してる』と改題され単行本となった。
「思ったり感じたりした者の勝ちだ。」
鷺沢小説群で最も知られているフレーズはこの作品から出てきている。
繰り返すが当時22歳。それからどれだけの景色を見てきたのか。
迎えてしまった、最後の日まで。

 

滞在記の結びを抜き出す。

 

自分が間違いだらけで、どーんなにひとに非難されようが
死にはしない。そういう意味で、「わたしは大丈夫」だって
思えるようになった。“I can be”って感じ。
書くことに題する執着だとか、自分っていう存在に対する
執着みたいなのは、もう一生、考えている限りでは
捨てられないと思ってます。

 

この言葉に嘘はなかったのだろう。だが。

 

帰りのエアに乗る直前にもらったポーランド・スプリング。
鷺沢萠スペシャルで「ナゾの水飲み女」が最初に挙げた水だ。
「これだったんだ…」。
忘れていた疑問の答えが、探さずとも目の前に提示されることがある。
たとえそれが28年後になったとしても。
帰国後、改めてエッセイをほぼ全作読み返してみた。
月カドの記事が初の旅行記だったと思うが、
以後のエッセイには旅の記述が多く出てくる。
「私もこないだニューヨーク行ってきたんです」。
今ならSNSで直接呼びかけることもできるというのに本人がいない。
時の流れの早さに言葉を失う。
自分だって人生の折り返しはとうに過ぎている、と思う。
見えるようで見えない「最後の日」が来るまで、
今はまだ歩き続けるしかない。

f:id:eggmoon:20200320001943j:image